第16回ことわざフォーラム

第16回ことわざフォーラムは、「ことわざとユーモア」をメインテーマとして、10月23日(土)午前9時30分より明治大学駿河台キャンパス研究棟で開催された。以下は、当日の司会者(午前=永野恒雄会員、午後=保阪良子会員/山口政信会員)による報告である。

個別研究発表(テーマ自由)

午前中の第1部では、三人の会員から報告がおこなわれた。限られた時間の中ではあったが、いずれも日頃の蓄積を踏まえた国際的・学際的な報告であったといえよう。

最初に、鄭芝淑(チョンジスク)会員(名古屋大学大学院)が「日本と韓国のことわざ認知度・共感度調査」と題して報告した。ここで認知度とは「どの程度知られているか」、共感度とは「ことわざの込められた知恵や教訓をどの程度受け入れているか」を指すという。

日韓両国でこれらを調査し比較するにあたって、報告者は、日韓の代表的なことわざを50選び、同じような意味をもつことわざを対応させていった。この対応という試み自体が非常に興味深く、もちろん、その調査結果もまた、参加者の関心を引いた。細かいデータの紹介は割愛するが、共感度調査の際の「意味がわからないので答えられない」という回答が、韓国170に対し日本1724と、10倍の開きがあったのはショックだった。

続いて岡口良子会員が「ヒンディー語のことわざ」と題して報告した。ヒンディー語の映画・雑誌・インターネットから引かれたことわざについて、それぞれ意味・由来・定型と応用型等について詳細な説明があった。報告者は、インド映画の日本語字幕を担当されているとお聞きしたが、インド映画に出てくることわざの紹介には特に力がはいっていた。全体に、インドにおけることわざの位置は、日本などと比べるとはるかに重要かつ日常的なのではないかという印象を受けた。

最後に金鎮国(キム・ジンク)会員(聖徳大学大学院)が「日韓「言語表現」対照研究―『浮世風呂』と『春香伝』におけることわざ―」と題して報告した。報告の途中、『浮世風呂』の一節の朗読やパンソリによる『春香伝』の紹介(録音)が入るなど、意欲的な報告であった。『浮世風呂』と『春香伝』を比較対照する、あるいはその中で使用されていることわざを分析・比較するという、壮大かつユニークなテーマ設定であったが、時間の制約のため、十分な展開を聞くことができなかったのは、残念であった。

会員のために、機会を改めて『春香伝』のことわざ、あるいはパンソリのことわざに特化した報告をしていただくとよいのでは、という感想を持った。

 

《古典芸能コーナー・俗曲》

お昼の休憩をはさんで恒例の古典芸能。今回の演目は「俗曲」で、柳家小春師匠をゲストにお迎えした。緋毛氈の高座に三味線を持って師匠が登場したところから、会場はすでに情緒たっぷりの雰囲気となった。寄席と同様に合間におしゃべりをはさみながら、端唄、甚句、新内、都々逸など、しっとりとした唄、胸をうつ語り、そして時に笑いもある陽気な唄と、バラエティに富んでいる。ことわざに触れながらの構成も素晴らしく、最後は大師匠である紫朝師匠直伝の「大津絵 両国」がしめとなった。寄席では15分程度が普通だが、その3倍ほど演奏していただき、大いに堪能することができた。

続いて、小唄と端唄の違いについての質問、初めて三味線音楽を聴いた韓国からの参加者の感想を聞いたりなど、小春師匠とフロアとのやりとりが楽しいおまけだった。(ご多用の中、小春師匠にはシンポジウム、懇親会にもご参加いただき、ことわざと俗曲、都都逸との関わりの深さについてのご感想をいただくこともできた。)

 

講演「ことわざ断章」

「ことわざ断章」というテーマで、外山滋比古先生のことわざに関するお考えと、尽きぬ情熱をお伺いした。座って話すとことばに力が入らないからと、マイクを手に立ったままで話し通された。1923年のお生まれとは到底思われないその情熱的な姿勢に、会場はたちまち引き込まれていく。

お話の内容は多岐にわたったが、要約すると、次のようなものであった。

「文字は知識の垂直伝達であるのに対し、音声は水平伝達の機能をもつ。ことわざは文字の認識からはみ出した音声の技である。日本人の肺活量からすれば、一息で言い切れる16音~17音ほどで構成されるものが多い。    調子のよさが、日本のことわざの美しさを形づくっている。詩の散文的な形式から独特の調子が抽出された。その結果、“いろはカルタ”ということわざアンソロジーが誕生した。          ことわざにはリズム感があり、語呂のよさに切れがある。独特のユーモアが加味されていることわざは耳に心地よく、記憶にも残りやすい。短文であることがかえって想像力を刺激する。しかし「弘法も筆の誤り」を検証せよという野暮天がいるなど、笑えない笑い話もある」。

いずれもことわざ研究に刺激を与える貴重なご指摘だが、お話をお聞きしているうちに、ことわざやユーモアこそ外山先生の活力源であるかのように思えてきた。

 

《シンポジウム》ことわざとユーモア

シンポジウムでは、日本笑い学会理事の高杉氏、ことわざ研究会会員の伊藤氏・佐竹氏の3名のパネリストに報告していただいた。

高杉和徳「ことわざとユーモアについて」    高杉氏は、「笑い」そのものを題材にしていることわざは意外に少なく、どちらかといえば笑いをたしなめることわざが多いことを最初に指摘された。その上で、ポピュラーなことわざの一部置き換え(「笑いは百薬の長」)や創作ことわざ(「よく遊びよく笑え」)によって語としての「笑い」をことわざに取り入れる提案がなされた。

伊藤高雄「ことわざとユーモア-にわか・茶番・万作芝居-」    前近代の日本にあった笑いの文化は、西洋文明と高等教育の影響により失われたとし、駄洒落などではないより上質の笑いを取り戻したいとする柳田國男の見解がまず紹介された。その「上質な笑い」は芭蕉の俳諧を理想としていたらしいという伊藤氏の指摘は、柳田の笑い観を批判的にとらえる意味で重要である。前近代の例として、にわかと茶番が豊富な資料と共に提示され、ことわざと笑いが庶民の中で共存していた様子が伺えた。

佐竹秀雄「ことわざにおけるユーモアの正体」    佐竹氏は、ことわざからなぜユーモアを感じるのかについて、形式的な側面と文脈・場面・引用などに関わる意味解釈の側面から考察された。形式面では、口調の良さに加えて、無関係あるいは反対概念の語結合が、意味の面では、ずれや落差による効果、ことわざが適切な場面で使用された場合の効果によって、ユーモアが生み出されるという指摘がなされた。

その後、外山滋比古氏にも壇上に上がっていただき、山口政信会員の司会のもと、フロアを交えて活発な論議がなされ、非常に実り多いシンポジウムとなった。

フロアとのやりとりからから一部論点を紹介したい。「笑い」という語がなくとも、ことわざは使用場面によっては笑いをもたらすのではないか、という指摘があった。また、「笑い」の生産者は男性、消費者は女性であるとの見解については、従来のことわざは男性の視点からのものが多いと言えるが、今後は性別に関わりなく新たにことわざを作り出すことが重要との指摘もなされた。さらに、創作ことわざを会報で定期的に記載し記録する必要があるとの意見もあった。「赤信号 皆で渡れば恐くない」のように、新たに辞典に記載されるものあることから、新しいことわざを収集することも今後の課題の一つとして考えてもよいのではないだろうか。