第22回ことわざフォーラム

2010年10月30日(土)、名古屋大学において第22回ことわざフォーラム(第4回ことわざ学会大会)が、ことわざ学会と名古屋大学大学院国際言語文化研究科との共催で開催された。名古屋で初めてのフォーラムは、台風の影響が懸念されたものの、その影響もまったくなく、学会員のほか名古屋大学関係者や一般の方々の多数の参加を得て、盛会の内に終了した。以下は、当日の司会者による報告である。

研究発表(テーマ自由)

午前の部では、午前10時から会員による研究発表が行われた。(機器不調のためプログラムの順序を一部変更した。)
1.李恵敏会員(名古屋大学大学院国際言語文化研究科博士課程)   「中国ことわざの対句表現」    中国語の表現において対句形式が重要な位置を占めていることを踏まえ、発表者の作成した中国ことわざのPSリストの上位100位程度のことわざのうち半数が対句形式のものであることを示し、この表現形式が中国ことわざの形式面における最も重要な特徴であることを指摘した。

2.高村美也子会員(名古屋大学文学研究科博士研究員)   「タンザニアのボンデイ族のことわざ使用」    タンザニアの共通語スワヒリ語の教育が普及する中、高齢者の口頭言語として辛うじて命脈を保つボンデイ族固有の言語の中から発表者が採集した715のことわざの報告があった。紹介されたことわざはいずれもボンデイ族の生活に密着したものであり、現地で撮影されたスライドも効果的で、ことわざの原点を思わせる発表であった。同時に、失われゆく伝統文化に対する危機感を感じさせた。

3.佐藤トゥイウェン会員(関西大学文学研究科修士課程)   「日本・ベトナムにおける“親子”の語彙を用いることわざ比較分析」   親子関係に関する日本とベトナムのことわざのうち、特に「親と子が似ているか似ていないか」にかかわる主なことわざを取り上げ、意味内容と表現形式の共通点と相違点の分析を試みた。比較の対象を狭く限定したため例の数が少なく必ずしも意図した目的を達成し得てはいないが、非常に精力的な研究姿勢がうかがえ、今後の発展を大いに期待させた。

以上のいずれの発表についてもいくつかの質問が寄せられ、司会者が準備した質問を持ち出す必要がないほど密度の濃い発表であった。(飯田秀敏)

この後、休憩に入り、その間にことわざ学会総会が別室で開催された。

伝統芸能

午後の部の最初は、恒例の伝統芸能の公演で、名古屋で初めてのフォーラム開催ということで、三河地方に江戸時代より伝わる三河万歳のうち御殿漫才を鑑賞した。演者は幸田町(こうたちょう)三河万歳保存会の皆さんで、幸田町三河万歳は西尾市の三河万歳とともに国指定無形重要民俗文化財に指定されている。    公演に先立ち、長年三河万歳の保護指導に携わっておられる幸田町文化財保護委員長の水野武至氏の三河万歳の解説があった。氏の語り口に三河万歳を愛してやまない胸中が感じられ好評であった。御殿万歳公演は五人の演者によって25分にわたって行われた。前半は最もめでたいとされる柱立ての祝詞の舞、その厳かさと後半の七福神の舞の華やかさ・滑稽味の対照が見事に演じ分けられており極めて興味深いものでり、観衆一同に一足早い春の訪れを感じさせた。(飯田秀敏)

記念講演

講演は、篠原徹氏(滋賀県立琵琶湖博物館館長)の「動植物をめぐる俗信とことわざ」であった。氏は、伊賀にある芭蕉記念館に出かけた際に知った「無駄事に身は老いくれぬ菊の花」(井上士朗)の句や現代川柳の話から語りおこされ、最近、特に興味をお持ちになっているという俳句・俳諧の話と、日本の農山漁村やアフリカなどで体験なさったフィールド・ワークでの経験談を織りまぜながら講演を展開されたが、まず強調されたのは、書くもののない社会での記憶の重要性と、そうした生活の中で形作られていったと見られる俗信やことわざなどの「経験知としての一行知識」の必要性であった。  以下は、取り上げられた俳句や俗信、ことわざの一例。まるでことわざのような俳句―「竹の秋孟宗ハチク真竹の順」(右城墓石)、「松茸は皇帝栗は近衛兵」(阿波野青畝)。「かまきりの巣が木の上にあるとその年は大雪になり、下の方にあると雪が少ない」、「麻のよく成長する時は米がとれる」、「狐の夢を見ると漁がある」―動植物の俗信。ことわざ―「犬も朋輩鷹も朋輩」、「飼い犬に手を噛まれる」etc。    印象深かった事例を二つ。「チグサの花(ツバナ)が飛びかかれば山桃光る」などの予知の俗信は、経験知とともにことわざに昇華されていくのではないか、と。また、「おのが身の闇より吠えて夜半の秋」(蕪村)の句の鑑賞には、犬と人との関わりあいの歴史と、犬の習性へ観察から生れた「煩悩の犬は追えども去らず」ということわざが背景にあるのではないか、と。    軽妙なユーモアを交えたご講演は、ことわざはもとより、俳諧や俗信も含んだ「経験知としての一行知識」の豊かな広がりと、その意味や動態を考えさせる貴重な提言となった。(伊藤高雄)

シンポジウム「越境することわざ」

上記のテーマのもと開催したシンポジウムのパネリストとそれぞれのテーマは次の通り:北村孝一会員(学習院大学非常勤講師)「越境することわざの位相」、鈴木雅子会員(デンマーク語研究者)「イソップ寓話とことわざ-日本語と西洋語の比較」、鄭芝淑会員(愛知淑徳大学講師)「ことわざの日韓関係」、永野恒雄会員(明治大学兼任講師)「ことわざの技法に国境はない」。司会は、伊藤高雄会員と保阪良子会員。

北村氏は「山と山は出あわないが、人と人は出会う」やその他の越境して伝承されていることわざを紹介したうえで、ことわざの「越える」特性を明らかにした。日本語のことわざの中心部分には想像以上に西洋由来のものが多い点、日本、西洋におけることわざにおいて言語、民族、階級、宗教を越えて伝播している例、そしてそれぞれが到着地点において意味や用法をダイナミックに変容させていることが紹介され、そこに口承文芸であることわざの特性がいかんなく発揮されている点が指摘された。

鈴木会員はイソップ寓話に基づくことわざが日本語および西洋語(英語、ドイツ語、フランス語、デンマーク語等の北欧諸語)において表現や語彙の点でどのような相違と共通項があるのかを紹介した。同じ「西洋」といっても人口の膾炙の度合いの違い、おそらく誤訳に基づくであろう語彙選択、また西洋起源といっても古典語から直接ではなくドイツ語訳から伝播していった経緯の可能性が示唆され、非常に興味深く今後の発展が期待される内容であった。

鄭会員は日本語由来の韓国語の語彙の紹介を糸口に、日韓のことわざには中国由来のものが多い一方で、使用されている語に相違があるにしても形式・内容ともに非常に似ている日韓のことわざの多さに着目した。この類似関係はどちらからどちらへの派生関係が根底にあるのか、あるいはことわざの「普遍性」によるものなのか、非常に刺激的な課題を私たちに投げかけてくれた。

永野会員はことわざの技法とはまず口承のための技法であることを押さえたうえで、ことわざの「透明度」(李恵敏会員)を切り口に透明度の高低と口承の度合いを関係づけた。「透明度が低い」ことわざとは文字化した場合に意味がすぐには分からないことであるが、これを欠点としてでなく、インパクトやイメージの豊かさ、記憶の定着への寄与、ことわざの内容への納得度を高める上でことわざの最も重要な特性である口承性ゆえのものであることを明らかにした。

各パネリストからの報告後、フロアとの質疑応答には30分近く時間を費やすことができた。午前中の研究発表もまさにことわざの「越境」に通底するものであり、そこでの報告者からの質問や感想、篠原徹講師による植物学の観点からのコメント、日韓のことわざに関しては日本の統治時代の教育の影響といった歴史的要因の可能性に関する示唆など、活発な議論がなされ、名古屋大学で初めて開催されたことわざフォーラムをしめくくるにふさわしい有意義なシンポジウムとなった。(保阪良子)