第17回ことわざフォーラム

第17回ことわざフォーラムは、2005年12月16~17日の両日、学習院大学で開催された。17日午後のプログラムは、学習院大学文学部ドイツ文学科および文学部文学会との共催となり、参加者が200名を超える盛況であった。

学生・留学生・若手研究者のためのワークショップ

16日午後6時から、小教室で開かれたワークショップには20余人が参加した。近年ことわざを研究分野に選び、修士、博士の学位取得を志す若い会員(とりわけ留学生)が増えてきた。彼らの期待に応えるため、フォーラム初の試みである。

ゲストスピーカーには、5年前に久留米大学で博士号を取得された朴丹香会員(韓国協成大学校兼任教授)を招いて、後輩へのアドバイスを頂いた。ことわざは学問分野として認知度が低いため、江戸時代のことわざというテーマ自体の難しさばかりでなく、教員の十分な理解が得られず、資料集めや研究方法についてもさまざまな困難があったという。朴さんは、後輩へのアドバイスとして、1)目的を明確にする、2)ことわざの範囲(基準)を設定する、3)先行論文を読む、4)完璧主義では論文は書けない、などを挙げて説明した。参加者は、朴さんの研究への真摯な姿勢と胸を打つ体験談に引き込まれた。

続いてアドバイザーの武田勝昭会員がコメントを加えた後、参加者から多くの意見が出された。先行研究の情報不足、資料・研究発表の場が不十分なこと、適切な進路や指導教員が見つからないこと、などの指摘である。さらに、それらの課題克服のため研究会の果たすべき役割を確認し、情報交換用のホームページを活用することや共同研究の必要性などが論じられた。(武田勝昭)

 

個別研究発表(テーマ自由)

17日午前の部では、三人の会員から研究報告がおこなわれた。制限された時間の中ではあったが、いずれも日頃の蓄積と研究を踏まえ、かつ問題提起に満ちた報告であった。

最初の報告は、山本祐介会員(中央大学大学院)の「ことわざ理解のメカニズム―認知言語学からのアプローチ―」と題するもの。山本氏は、G.レイコフらの言語学者に依拠しながら、認知言語学の立場からことわざの表現あるいは論理を解明しようと試みた。かなり高度な議論ではあったが、「時は金なり」、「人生は旅である」といった比喩がなぜ説得力を持つのかを、「マッピング」によって説明されたあたりは、なかなかわかりやすく、また刺激的であった。いまさらながら、ことわざの奥の深さを意識すると同時に、今後のことわざ学の進展のためにこうした議論はさらになされなくてはならないと感じた。

2番目は、Kate O’Callaghan (ケイト・オカラハン)会員(常葉学園大学講師)の「ゲーリックのことわざに見る“神”」(通訳は蓮見順子会員)。アイルランドの一部で使用されているというゲール語については、辛うじてその存在を知っているだけで、その歴史も知らなければ、それを耳にしたこともなかった。ゲール語のアルファベットは18文字という話も初めて耳にした。

何よりも感動したのは、オカラハン会員が語られるゲール語のことわざの美しい響きである。こうした貴重な言語、そしてことわざも、意図して保存しなければいずれは滅びてしまうものなのだろうか。今回紹介されたことわざは「神」に関するものであったが、そのほかに処世的に用いられることわざにはどんなものがあるのか、関心を抱いた(会場からもその趣旨の質問があった)。

3番目の報告は、北村孝一会員の「“犬も歩けば”再考―その意味・用法と修辞の構造」。音響と映像を駆使した印象的な報告であった。

北村会員の問題設定は、犬棒かるたの「犬も歩けば棒に当たる」が、幸・不幸二通りに用いられることを、どう説得的に説明するかであった。これまで様々になされてきた議論を検討したのちに北村会員がたどりついた結論は、「卑下も自慢のうち」。すなわち、「社会的なひねりをきかせた反語的表現」という解釈であった。まさにひねりのきいた妥当な結論であり、反論は難しいという印象を抱いたものである。(永野恒雄)

 

《古典芸能コーナー・落語》

昼の休憩中、学習院の落研の学生が高座を作り、武田会員による挨拶で午後のプログラムが始まった。出囃子「まかしょ」が流れる中、柳家喬太郎師匠がベージュの着物で登場。300名近い観客の層を見据えて、まずは初心者向けに、なぜ新作落語でも着物なのかに始まり、高座扇子や手拭を使って、あるいは小道具なしでの仕草についてのマクラが続いた。子ども向けには「桃太郎」「花咲爺」の小噺、そして、古典落語の「時そば」。快晴だが非常に寒かった当日にぴったりの演目で、マクラが利いている。喬太郎ならではのくすぐりの入った大爆笑の「時そば」で、「お蕎麦たべたくなったわー」という声も客席から聞こえてきた。続いて、喬太郎オリジナルの新作落語「夜の慣用句」。ことわざ満載のこの落語はフォーラムにぴったりの噺で、会場はまたしても爆笑の渦となった。予定時間をかなり超えての熱演に、喬太郎ファンはもちろんのこと、落語初体験の観客も大満足であった。

 

講演「古代ギリシャの謎々」

続いて行われた吉田敦彦氏(学習院大学名誉教授)の講演は、スピンクスの謎かけ(4本足であり、2 本足であり、3本足であるというのは何者か)に対して、オイディプスが「それは私だ」と正答した有名な話がテーマであった。まずは、ギリシャ語のテクストをもとに丁寧な読解と説明がなされた。その結果、吉田氏が明らかにしたことは、朝に4本足(赤ん坊)、昼には2本足(成人)、晩には3本足(老人)という、人口に膾炙している解釈に埋め込まれた時間の推移による変化は、ギリシャ語のオリジナルテクストには一切書かれていないことであった。4本足とは獣であることを示し、これはオイディプスがのちに自分の母親を妻に娶ることが示唆されている。また、2本足とは、大地に2本足ですっくと立ってスピンクスに立ち向かったオイディプスの自信と尊厳を表している。そして3本足とは、自分が犯した罪(父親殺しと近親相姦)を悔やみ、狂気でなく正気で、つまり理性をもった状態で自らの手で自分の目をつぶし、杖なしでは歩けない状態になることが意味されている。謎の正解はオイディプス自身であると同時に人間そのものであること、すなわち人間の複層性を示すものであることが吉田氏によって鮮やかに謎解きされた。(保阪良子)

 

《シンポジウム》ことわざと身体

本年度のシンポジウムのテーマは「ことわざと身体」であった。長谷川啓三氏(東北大学教授)「臨床の語用論から」、鄭芝淑(チョン・ジスク)会員(名古屋大学講師)「ことわざの身体語彙に関する日韓比較」、山口政信会員(明治大学教授)「ことわざの身体と身体性―体育における“創作ことわざ”立場から―」の三氏による発表のあと、伊藤高雄会員の司会で行われた。

長谷川氏は臨床心理学の専門家である。氏は、ことばと行動の関係を扱う分野「臨床の語用論」の立場から、一般的な言語の特性=伝達ではなく、言語には「行動の拘束力」という働きがあることを前提に、カウンセリングや心理的なセラピーの実態について述べられた。ことわざには「二度あることは三度ある」に対して「三度目の正直」があるようにウラとオモテの多元的な見方があるが、そうしたことわざ的ものの見方と臨床の現場での行動療法とのあり方には共通性があることを主張された。現実の社会でもいかにことばが身体を拘束しているか、ことわざの観点からも改めて考えさせられる貴重な報告であった。

ついで鄭氏は、日本と韓国のことわざに現れる身体語彙を比較し、その間の違いについて考察された。その際、従来のことわざ比較研究の問題点を列挙し、各言語間の比較の方法として、誰もが知っていることわざから特殊なものまでをスペクトル的に整理したPSリストと呼ぶことわざの重み付けリストを用いる方法を提唱、具体的には耳・目・口に関する身体語彙について日韓ことわざの比較を行なった。後の質疑応答では、比較の結論そのものよりも、ことわざの国際比較に対する方法論の提示であることわざスペクトルについて関心が寄せられた。研究者にとってこの関心は当然なことで、恣意的な比較ではなく客観性をいかにその研究に求められるか、考えさせられるきわめて重要な提言であった。

山口氏の発表は、体育の授業で学生が創作した豊富な事例をもとに、身体とは何かの定義からはじまって、アナログとしての身体とことわざの関連性、行為としてのことわざ、ことばの再帰性、アートとしての創作ことわざなど、多面的に論述された。生身の身体からの響きやリズムがことわざの命であり、コーチング(指導)の上でも創作ことわざは実に豊かなものをもたらすことが、指導体験をもとに懇切に解説された。

臨床、国際比較、スポーツと異なったジャンルからのアプローチによって、多面的なことわざと身体の世界が開かれていく可能性を実感させてくれたシンポジウムであった。(伊藤高雄)