第31回ことわざフォーラム

“ことわざフォーラム2019”は、10月26日午前10時より京都市上京区の同志社女子大学今出川キャンパスで開催された。

研究発表

午前の部は、会員による研究発表3件が行われた。
まず、鄭芝淑会員が「『耳談續纂』のことわざについて」と題して発表。『耳談續纂』は、李氏朝鮮後期の実学者で朝鮮実学を集大成したとされる丁若鏞(ちょん・やぎょん)が58歳の時に著したもので、中国のことわざ(経史引喩)177 章と漢訳された朝鮮のことわざ(東諺)214 章が収録されている。著者は29歳ですでに漢訳ことわざ集を著しており、生涯ことわざに関心を抱いていたと思われるが、ことわざ収集を目的としたわけではなく、漢詩修行の素材としてことわざを用いた可能性が指摘された。その論拠として、形式面(丁がことわざを四言二句形式で韻を踏ませて漢訳していたこと)を挙げたのは、なるほどと合点がいくものであった。

次に、高村美也子会員が「無文字言語におけることわざのゆくえ」と題して、SNS の登場が、タンザニア北東部に居住するボンデイ族の民族意識の再確認を促している可能性を指摘した。多言語社会では、フォーマルで社会的な場面で用いる(優勢)言語と、インフォーマルな場面で使われる(劣勢)言語という棲み分けが生じるが、ボンデイにおいても例外ではなく、特に若い世代では民族語であるボンデイ語よりもスワヒリ語や英語に傾きがちであるという。ところが、Facebookに投稿されたボンデイ語のことわざに対し、若者たちがボンデイ語で反応したり、自民族の言葉や文化を発信したりする投稿も見られることが報告された。テクノロジーの変化という社会的な要素が、言語・文化の保持に積極的な貢献を果たす可能性が提示され、大変興味深く感じられた。

最後に、尾﨑光弘会員が「謎や奇抜は当たり前 おどけ秀句に教訓化 暗記(アンチ) 軽口笑みは端(はた) ─柳田国男「ことわざの話」で諺の変遷像を手に入れる─」と題して発表された。かつて、争いごとに際し、味方を笑わせ相手をへこませ自分の想いを通す「口達者」が登場し、相手の言行をまねる攻め方をしていたという。この「まねること」は類似性を軸に「たとえ」を生み、笑いの強力な武器になったそうだ。たとえの変化を、「謎」「奇抜」「当たり前」「おどけ」「秀句」「教訓化」「暗記」「軽口」に分類し、豊富な実例とともに鮮やかに提示された。ことわざは、心のフックに引っかかるレトリック効果を備えているように感じていたが、その源泉には心地よさを引き出す「笑う」「楽しむ」という要素がこれほど潜んでいたのかと「当たり前ショック」を受けた。

会場には、会員のみならず熱心な非会員も参加し、午前から活発な質疑応答が展開された。毎年、様々な言語・テーマを扱った研究発表が行われているが、こうした個別研究の積み重ねが、「ことわざ学」をより一層深化させるのだと感じさせる、聞きごたえのある研究発表であった。(八木橋宏勇)

ワークショップ

午後の部は、ワークショップ「メディアとことわざ」で幕を開けた。
担当は認知言語学が専門の八木橋宏勇会員で、「ことわざアニメ」(“You Tube”)「ことわざアップデート」(TOKYO MXの『5時に夢中!』)、銀シャリ、ジャルジャルの漫才、さらにはフランス映画『アメリ』等の映像をスクリーンに映写して展開された。

メディアをとおしてことわざをとらえる本ワークショップの試みは、現代日本人の言語生活の一端を再認識するよい機会となった。「メディアにおけることわざの活躍をみると、暗黙知(tacitknowledge )としての『ことわざらしさ』を私たちは何らかの形で知っている」とする八木橋氏の想定を参加者の多くが実感できたのではないだろうか。ことわざの本質にせまる、愉快で有意義な1時間であった。(大島中正)

講演「身近で短く、広大で奥深い……」

北村孝一会員は冒頭で、ことわざ研究は対象の性質上学際的研究たらざるを得ないという考えを述べ、「花より団子」を様々な角度から分析して例証した。次いで、ロシアの文豪ドストエフスキイの誘いに「山と山は会えずとも人間同士はいつか会える」ということわざで答えた若き口述筆記者アンナの逸話を取り上げ、そこに女性の行動規範など社会的背景や文化が伺えるとした。さらに、このことわざがロシアだけではなく広く世界の各地に見られると話を発展させ、「ことわざは宝の山」であり、研究の題材は豊富であると締めくくった。

納得せざるを得ない結語であるが、講演者の古今東西のことわざに関する豊富な用例分析体験が土台になっていることを考えると、辞書的なことわざ知識しか持ち合わせない評者は、宝の持ち腐れにならないように自戒しなくてはと思った。(鄭芝淑)

シンポジウム「ことわざの学際的研究」

フォーラムのハイライトとなるシンポジウムには、2人のゲストと2人の会員がパネリストとして登壇し、まずそれぞれのテーマで報告を行なった。

最初の報告は、梶茂樹氏(京都大学名誉教授・京都産業大学教授)による「ウガンダ・ニョロ語のタブー表現と予兆表現:その構造と論理」。 ニョロ語のタブーは「父親が死ぬからカマドに腰をかけるな」のように否定命令で表現される。そこには行為の禁止と、違反した場合にもたらされる結果だけが示され、「火傷をするからカマドに腰をかけるな」という不幸を伴う真の理由は隠さる。一方、予兆表現は、「あなたが旅行に出かけようとする時、ネズミが道を横切ってはならない」のような不可抗力な「不吉なこと」が生じた場合の対処法(例えば、旅行を中止する等)を教えるもので、タブーと同様に禁止の理由は隠され、不明であるという。

二番目の報告は、発達心理学が専門の大西賢治氏(大阪大学人間科学部特任研究員)による「情けは人の為ならず:幼児における親切行動の交換ルール」。
5~6歳の保育園児の日常場面を観察すると、親切な行為をしていた園児は、それを見ていた他の園児から11倍の頻度で親切にしてもらえるという。「情けは人のためならず」のことわざどおり、他者への親切が自分に返ってくることがこの観察によって科学的に確認できる。発達の比較的初期から血縁のない人同士の間でもこのような利他行動の交換(評価型間接互恵性)が見られるのは、それが人間の本性に深く根ざしているからではないかと考えられる。

三番目の報告は、玉村禎郎会員による「諺の生産性」。ことわざには新たな意味解釈が生まれるものがあり、その派生の要因・背景として、例えば、「可愛い子には旅をさせよ」には「旅」のイメージの変化、「旅の恥は掻き捨て」には拡大解釈、「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」では村落共同体の意識変化、などがある。また、ことわざの生産と語の生産には共通性があり、そこには「類似の形によって成っている既存の句(語)」の数と使用度が関与する。昨朝・昨晩、今朝・今晩、明朝・明晩の規則的な構成から類推されて、「早晩」に「早い晩」の新解釈が生まれたのはその一例で、ことわざにも同様の現象が見られるに違いないとされた。

最後は、永野恒雄会員による「大学生のレトリックとことわざ」。かつて高校生を対象に創作名言を実践した経験をもとに、大学生に「レトリックの力」を認識・体験させる「命題づくり」を始めた。毎授業の終わりに回収するレスポンスペーパーの項目に「本日の授業内容を一言(一命題)でまとめると……」を加えておく。ねらいは、学生が自ら捉えた授業のポイントを的確な一言で表現するのに慣れることである。回を重ね趣旨を理解するにつれ、その効用に目覚めるレポートが現れる。曰く、「命題で帰納、使うときに演繹」「相手に短く簡潔に伝える力を、これからも気にしてゆきたい」など。

報告終了後、休憩を挟んで質疑応答が行われ、フロアから質問が相次いだ。「フィールド研究で聞き取ったことわざをどんな方法で意味解釈するか」「親切行動の研究を始める前に『情けは……』のことわざを意識していたのか」「『ちりつも』のような縮約表現はなぜ可能なのか」「ことわざはなぜむずかしいことを一言で表せるのか」など。これらの質問に対するパネリストの返答については省略せざるをえないが、いずれもフロアには十分に刺激的なものであった。

今回のシンポジウムは、分野の異なる研究者が従来以上に集い、ことわざを読み解く際にスキーマやモデルなどの共通のキーワードで言及されることが少なくなかったのが特徴であろう。ことわざが学際的に、多面的かつ有機的に論じられるようになってきたことの表れといえるのではないだろうか。(武田勝昭)