第25回ことわざフォーラム

通算25回目を迎えた“ことわざフォーラム”は、11月16日(土)に慶應義塾大学三田キャンパスで、ことわざ学会とNPO地球ことば村および慶應義塾大学言語教育研究フォーラムの共催で開催された。(以下は、当日の司会者などによる報告である。)

研究発表

午前の部は、ことわざ学会の主催で、3件の個別研究発表が行われた。

まず、鈴木雅子会員が「ことわざ解釈の多様性-転石苔を生ぜず-」と題して発表。A rolling stone gathers no moss. (転石…)には相反する解釈があり、(「引越や転職を繰り返すと財産が身につかない」「積極的に活動の場を換えていくことは清新である」)前者はイギリスの解釈、後者はアメリカの解釈とされる。しかし、英米のコーパス(BBC及びTime)を検索すると、その解釈は多様で、英米の線引きは妥当とはいえない。その要因はグローバル化による価値観の変化によると考えられる。

鄭芝淑会員「韓国ドラマのことわざ」の発表は飯田秀敏会員による代読で行われた。直接観察することが困難な日常でのことわざの使用状況を2つの連続テレビドラマでの用例を資料として分析したものである。内容は各話の使用件数、全話の総数、PSリスト(ことわざの重要度)に照らした度数比率、話し手の年齢別比率及び話し手と聞き手との関係(上下、人数等)等、多岐に亘った。フロアからは、口頭資料に着目した斬新さを評価する一方、使用場面を加味した分析を望む声が聞かれた。

大橋尚泰会員の「グランヴィル他『百のことわざ』―ことわざ劇と絵葉書の間で―」は、17世紀に地に堕ちたことわざが19世紀の民族主義思潮を背景に復権した歴史を振り返った後、『百の…』(1845)の内容をOHPの画像を交えて詳述した。同書はことわざ劇の伝統をくみ、小話50とことわざを描いた版画50とで構成されものである。増補改訂版ではことわざ三部作で知られるキタールが絵の解説を担当している。同書は20世紀に入って絵葉書や子供向けのカードを通じて人々にことわざのイメージを植え付けることとなったという。(武田勝昭)

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ワークショップ「ことわざから見える世界」

午後からは3団体の共催となり、最初のプログラムのワークショップでは、「ネイティブ」またはそれに準じる4人によって、世界各国のことわざの紹介が行われた。

まず、タンテリ・アンドリアマナンカシナ氏が「マダガスカル 一般生活に欠かせないことわざの役割」と題し、ことわざがマダガスカルの暮らしに欠かせない例として、特に結婚式などの儀式や伝統行事では、ことわざを多数盛り込んだ「カバーリ」と呼ばれるスピーチが行われることが、実例とともに紹介された。結婚式で下手なカバーリをしたらお嫁さんももらえないなど、マダガスカルでは予想以上にことわざが大きな役割を果たしていることが明らかにされた。

次に、岡口良子会員「ヒンディー語のことわざ」では、インド北部の共通語となっているヒンディー語のことわざが取り上げられ、今回のフォーラムの目玉の一つである「ことわざを編む」(ことわざのアレンジと創作)を意識しながら、元のことわざと、それをもじった表現の例が紹介された。視覚資料も交えた、楽しい発表であった。

長坂ソナムツェリン氏「チベットのことわざ」では、たとえば日本の「灯台もと暗し」に対応する「近すぎると目で眉毛が見えないもの」や、頭が禿げている人について言う「良い山には草が生えない」など、チベット独特の興味深いことわざが多数紹介された。

最後に、李惠敏会員「中国朝鮮族のことわざの使用状況」では、約百年前以降に朝鮮から中国に移住した少数民族である「朝鮮族」のことわざについて、母体となった朝鮮語のことわざ以外に、中国の影響を受けたことわざと、朝鮮族が独自に発展させたことわざがあることが、多くの例とともに示された。いずれも、ふだんはなかなか話を聞くことができない興味深い内容であった。

錯覚かもしれないが、「ネイティブ」の人々の生き生きとした話からは、どんなに優れた外国人研究者も持ちえないオーセンティックな響き(ことわざの「地声」のようなもの)が感じられた気がした。ことわざが各民族の「無意識」の堆積であるとするなら、民族の「無意識」はその民族に属する人が使うことによって十全に発露するのではないか……などと想像を逞しくさせるほどであった。(大橋尚泰)

講談「米百俵」

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古典芸能は、講談の一龍齋貞花師をお招きした。貞花師は、いつも招かれた土地にゆかりのあることわざや故事にふれ、観客を納得させることから講談を始めるという。今回も三田にちなんだことわざ談義に始まり、いつしか舞台を長岡に移し、しだいに「米百表」の世界に引き込まれていった。官軍に敗れ困窮した長岡藩に近隣の三根山藩から米百俵が贈られたとき、腹を満たすために分配を主張する藩士たちに対し、藩の大参事・小林虎三郎は未来を見据え学校建設のために使おうと説得する。緩急自在・当意即妙の語りで、時に笑いを誘いながら迫力十分。プロの話芸を堪能する一時を過ごすことができた。(荒木優也)

パネルディスカッション「現代社会でのことわざ活用」

最後のプログラムとなったパネルディスカッションでは、ことわざ学会と地球ことば村が各2名(計4名)推薦したパネリストによる報告がまず行なわれた。司会は、井上逸平氏(慶応大学教授)と保阪良子会員(学習院大学准教授)。

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最初に、永野恒雄会員(明治大学兼任講師/教育学)が「良いことわざ、悪いことわざ」と題して報告。福沢諭吉によるフランクリン「格言」の翻訳(『童蒙教草』初編、1872)を紹介し、翻訳が五七五または五七五七七と道歌の形式にかなうことに着目した。道歌は石門心学が教化の手段として多用したもので、その教えはウェーバーの「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」と共通するところが多い。フランクリンと格言の関係は石門心学と道歌の関係に通じ、内容的にも重なるのではないか、という。さらに、明治初期の『和漢泰西俚諺集』が西洋の格言・ことわざと中国の故事成語、日本のことわざを並列したことで、日本の「ことわざ」がにわかに高尚で文化的な短文句の地位を占めることになった。これが、後の柳田国男による「悪いことわざ」「下品なことわざ」の論難につながったのではないか、とする。永野氏は、柳田につきまとう道徳意識を批判的に指摘し、藤井乙男『俗諺論』を対比して読むことの必要性を示した。

次に、小馬徹氏(神奈川大学教授/文化人類学)が「諺の現代アフリカへの可能な貢献-ケニアのキプシギス社会を例として-」と題して報告。小馬氏によると、16世紀以降の中南米においては政治と宗教(カソリック)が一体化した植民地支配体制ゆえに「高文化対民俗文化」の対比構造が特徴となっているが、19世紀末のアフリカ植民地化のプロセスでは政教分離が原則のため、多様なミッションが同時に到来し、共同体が宗教面でも文化面でも分断された。この分断された共同体意識を支える「民俗文化」を保持する術として、言語の使い分けがなされ、ケニアでは、政治家が平時には高文化言語の英語を使用するが、国が危機に瀕する局面では、民衆の心に訴えるスワヒリ語だけを用いたのだった。ことわざには元来民族的差異を超える共通性があり、変化を柔らかく受容する免責性があるので、現代においても、新たな文脈で大胆に読み替えることで、民衆の心に届くことわざによって、民衆文化と共同体の分断を克服する可能性があるのではないか、と提言された。

続いて、海野るみ氏(首都大学東京准教授/文化人類学・民族音楽学)が「ことわざから考えるジェンダー――南アフリカ・グリクワの人々が教えてくれること-」と題して、フィールドワークに基づき報告した。グリクワは、女性が子どもとの関連で社会的な役割をもつ存在として肯定的に認識され、未婚の母親は「困難を知る人たち」であるがために差別されない社会であるという。そうした認識は、予言者の言葉がことわざとなって伝承され、現代にも生きていることが紹介された。

最後に、北村孝一会員(学習院大学非常勤講師/ことわざ学)が「ことわざの衰退と再生──再解釈と新たな越境の可能性」と題して報告。ことわざの衰退は生きたことわざに自然に接する機会が激減したことに起因すると、日本の現状を分析した。そして、大阪大学の発達心理学研究グループが保育園児の行動を観察して「情けは人のためならず」が人間の利他性(社会間接互恵性)に基づくことを科学的に実証した例を挙げ、ことわざを規範的解釈から脱し、再解釈することが再生につながるという。さらに、沖縄の「ヌチドゥ宝」やアイヌの「天から役目なしに降ろされたものは一つもない」を例に、先進→後進というベクトルを取り払った新たな越境の可能性を示し、ことわざが現代社会の諸問題を解決するヒントにつながることを示唆した。

その後の討議については割愛するが、今回のフォーラムで印象に残ったのは、2人の文化人類学研究者による発言(特にことわざとジェンダーに関するもの)であった。一つは、「性の非対称性」──権威をもつ男性がことわざを作り、受容者も男性であること、それゆえ(母親以外の)女性は邪悪な存在とされる──が明言されたことであり(小馬氏)、またもう一つは、ことわざには期待される男性像が示されるが、現実とは一致せず、女性に関することわざは女性の日常と一致することが多いとの指摘(海野氏)であった。アフリカのことわざや共同体の現実をほとんど知らない参加者にとっても、興味深く、かつ刺激的な内容であった。

表面的には、永野・北村両会員による報告とは論点が噛み合わなかったようにみえるが、内容的には、4氏がそれぞれ別な視角から重要な問題を提起しており、今後論議を深めていくことで新たな展開の可能性も期待できそうだ。終了後の懇親会では、「異種格闘技のようで面白かった」との感想も聞かれ、うなずく人も少なくなかったことを付言しておきたい。(保阪良子/倉田一夫)