第21回ことわざフォーラム

2009年11月28日(土)、第21回ことわざフォーラム(ことわざ学会第3回大会)が「ことわざの多様性」をメインテーマに武庫川女子大学(兵庫県西宮市)で開催された。今回は、ことわざ学会と武庫川女子大学言語文化研究所との共催である。関西で7年ぶりのフォーラムは、天候にも恵まれ、学会員のほか研究所LC倶楽部会員などの市民も参加し、盛会であった。(以下は、当日の司会者による報告である。)

研究発表(テーマ自由)

午前10時より開会の挨拶に続いて最初の発表は、渡部美穂会員・石田紗耶会員(共に大妻女子大学比較文化学部在学中)による共同発表で、「『宝物集』に引かれた俚諺的金言的成句の意義と機能」と題し、具体的には、「四知」「蓼食う虫」「井の中の蛙」のことわざをめぐって、中世仏教説話集『宝物集』の一巻本・二巻本・平仮名三巻本などの多くの伝本間の異同を検証し、原本に近いと思われる一巻本には見えなかったこれらのことわざが、小異をもちながら二巻本以降ことわざを収載していく様態を一つ一つ検証し、さらに、最後に今後の研究の方向性として、『宝物集』ことわざ索引の作成を提唱した。ことわざ資料の基礎的な確定作業の重要性をあらためて認識させられるとともに、口承の中にあったことわざと仏教説話の唱導のありさまや、伝本の改編作業の実態を視野に入れた有意義な発表であった。指導教授である松村恒会員(大妻女子大)からの懇切丁寧な補足説明もなされ、会場からは、提唱された索引作業への激励と、早急な索引の公表への期待が述べられた。

2番手は、松村有美会員(大妻女子大学人間文化研究所)の「日本のことわざにおける食文化と生活」。松村会員は、発表のきっかけとなった国際ことわざ学会でのペッカ・ハカミエス氏「フィンランドの食と労働」の研究発表を紹介し、すべて食がエネルギーであるとするフィンランドでの食のことわざのあり方と日本のことわざとの認識の違いを始発点にして、日本の食文化とことわざとの関連に視点を据え、以下具体的に、中国と日本の医食同源(薬・鮭)、対人関係(嫁・姑、主婦)、人(批評と知恵)、ポルトガルから入ってきた食べ物のことわざなどを取り上げて、スライドで具体的な映像資料も利用しながら、滋味豊かに論じられた。会場からは、中国と日本の医食同源の認識の違いを論ずる過程で取り上げた日本における肉食の実態への認識のあり方や、「蜜柑が黄色くなると医者が青くなる」の蜜柑が漢方薬でいう陳皮ではないのかなど、さまざまな発言があった。世界的な文化比較という視野をもちながら、食という人間生活にもっとも密接にかかわるテーマだけに今後の楽しくかつ有意義な研究の展開がうかがえる発表であった。(伊藤高雄)

その後、11時過ぎにフォーラムは休憩に入り、この間に別室でことわざ学会総会および理事会が行われた。

午後1時、研究発表後半の一番手は鄭芝淑(チョン・ジスク)会員(名古屋大学助教)の「韓国語教育と日本語教育におけることわざ」で、外国語としての韓国語と日本語の教育において、どの程度ことわざが活用されているかについて行った調査結果が報告された。韓国語教育では、テキストの素材としても各種能力試験の出題素材としても、ことわざがかなり積極的に活用されているのに対して、日本語教育ではほとんど利用されていないということが明らかにされた。ことわざに対するこの顕著な温度差はことわざ研究者にとっても外国語教育担当者にとっても、重要な検討課題になると思われる。

ついで、松村恒会員(大妻女子大学教授)が「小泉八雲の欧州南北金言・諺集の講義」と題して、ラフカディオ・ハーンが東京帝大で行なった文学史講義の講義録に取り上げられた北欧と南欧の金言・諺に関して,その正確な解釈のためには、英訳からの重訳に頼るのではなく原点に直接あたる必要があることを、実例に即した緻密な論証によって指摘した。ハーンの博学多才の一端を示すものとして紹介されたテーマであったが、発表の内容は松村氏自身の博覧強記ぶりを示すものであった。

最後に、北村孝一会員(学習院大学非常勤講師)が「幕末・明治初期の英諺事情」と題して、西洋のことわざを大量に初めて紹介した『西洋諺草』(1877)をめぐる「謎」の解明を試みた。氏は、オランダ語による英語入門書や文法書がこの問題と深くかかわっていると推測し、PijlのGemeenzame   Leerwijsに目星をつけ謎解きを展開した。北村氏は西洋のことわざが日本に伝わり受容されていく過程に関する研究の第一人者であり、今回の発表もその一環をなすものとして、着実な論証の迫力を感じさせる発表であった。(飯田秀敏)

 

《シンポジウム》ことわざの多様性

最初に、武田勝昭氏(和歌山大学教授、英語学)が「ことわざのもたらす言語経済効果」と題して話された。「ことわざは論理的だが情景・状況に依存するため、類諺が多くなって多様性が生じる」「命題の根拠が示されず、問いを投げかけるものがあり、そこに解釈の多様性が生まれる」「ことわざは日常の情景・状況を網羅して多様な世界を描くために多様性が存在する」と指摘された。そして、ことわざは、言語活動を広くカバーして、多様なコミュニケーション場面で短い表現で寸鉄人を刺すほどの効果を上げるもので、まさに言語経済、言語省エネの代表格と言えると主張された。言語経済効果という切り口は新鮮で、ことわざの現実の使用面を重視する武田氏ならではの発想だと思われた。

次に、保阪良子氏(学習院大学准教授、ドイツ語学)が、「ことわざの身体性-歌舞伎、ミュージカルを例に」という題で、ことわざは、口承性を重視すべきこと、実際の使用面で取り上げることの重要性を指摘された。本来口承であったことわざが、文字で記されるようになった過程で、多様性を帯びると同時に、失ったもの、忘れられたものがあるのではないかという問題を投げかけられた。ことわざは、コンテクスト、場面性と同様に、声や表情といった身体性が重要な要素であることを認識すべきだとして、歌舞伎「毛抜」やミュージカル「レベッカ」の一場面をDVDとCDで実際に紹介された。紙上で読むことわざと、目と耳を通して理解することわざとの違いが実感できる楽しいお話となった。

三人目として、渡部修氏(武蔵野大学兼任講師、上代文学)が「ことわざの型」という題目で話された。「枕詞型」と呼ばれる上代のことわざにも、「しゃれ型」とでも言える近世のことわざにも、掛詞が重要な役割を果たしていることを指摘された。その掛詞を通じて、日本人のことわざに対する観念の一部を明らかにできるのではないかと問題提起された。また、「漢文訓読・四字熟語型」からは、日本人の漢籍信奉の意識を読み取ることができるので、この型のことわざの有り様を分析することで、それらのことわざに対する日本人の意識を検討する一端になり得るだろうと述べられた。ことわざの型を通して、日本人の意識をとらえようとする発想からは、ことわざ研究の新たな展開が予感された。

最後に、松村恒氏(大妻女子大学教授、サンスクリット文献学)が、「中国起源のことわざの多様な解釈の起源」と題して話された。日本で、中国起源のことわざ成句を使ってきた間に、形態だけでなく意味内容でも本来のものとは違ってきているものがあることを指摘された。そして、その変化はことわざが本来的にもっている多様性によるという仮説を、「泣いて馬謖を斬る」「他山の石」を例に挙げて話された。つまり、民衆がことわざを使用するとき、その場その場に応じた使い方を許す許容度をことわざがもっていたからではないかと述べられた。ことわざの多様性の原因を、民衆の使用のあり方や意識に求めるという考え方は、他の3人のお話とそれぞれ結びつく点があり、より興味深くうかがえた。

この後、多様性という題目にふさわしく、質疑や参加者による多様性に富んだ議論が行われた。詳細は省略するが、参加者それぞれがテーマについて思いを馳せて何かが得られた会であったと思う。(佐竹秀雄)