第24回ことわざフォーラム

24回目となる“ことわざフォーラム”は、2012年11月10日(土)早稲田大学戸山キャンパス39号館第7会議室で開催された。好天にも恵まれ、盛会で、多彩なプログラムを楽しむことができた。以下は、当日の司会者などによる報告である。

研究発表

午前のプログラムでは3件の研究発表が行われた。まず、春花会員(東北大学大学院生)が「モンゴル語における『男=人間感』について」と題して発表し、伝統社会のモンゴルでは「男」は男性を意味するだけでなく「人間」もを意味することがあり、多くのことわざが男性優位を反映していると指摘した。例えば「男の言うことはバターの上に漂う/女の言うことは水の上に漂う」とは、男の言うことは信用できるが女の言うことは信用できないを意味する。質疑応答では、バターと水の価値観や対句ことわざの普遍性など、文化・表現に関する議論が活発に行われた。

北村孝一会員の「明治後期の文部省による口承文芸調査をめぐって」は、1905年末~06年頃文部省の指示で全国的に行われた童話・伝説・俚諺・俗謡に関する昨年の発表の続編である。新たに見つかった関連資料を紹介した後、和田茂樹『愛媛俚謡集』(1962)解説及び調査当時の埼玉県の文書などを基に、文部省調査の目的と実態を報告した。通達を受けた担当者(多くは郡教育会)は調査の目的・意図、対象、方法などを測りかね、おざなりな報告で済ませたものが多い中で、意義に気づき独自に報告書を作成した貴重な例があり、また調査の発案者として文部省に深く関与した芳賀矢一が考えられると北村会員は締めくくった。(武田勝昭)

鄭芝淑会員(愛知淑徳大学講師)の「朝鮮総督府によることわざ調査について」は、朝鮮総督府が1912年に朝鮮全土にわたって行った民俗文化資料調査のうち俚諺に関する部分について、任東権氏が1964年に発表した論文に基づいて紹介したものである。この調査は朝鮮で最初に行われた全国的調査として重要な意義を持つが、その全容についてはまだ分析されておらず謎が多い。1926年に出版された『朝鮮俚諺集』との関係はどうか、また北村孝一氏の発表で紹介された明治政府による同種の調査との関係はどうかなど、様々に興味をかきたてる発表であった。(飯田秀敏)

講演「ロシア文学とことわざ」

午後のプログラムでは、奥津文夫会長のご挨拶に続いて、井桁貞義氏(早稻田大学文学芸術院教授)による講演が行なわれた。

井桁氏は、まずロシア文学を「生きることの意味を深く問いかける文学」であるとし、ドストエフスキイの3作品──『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』を中心に紹介し、そこに引かれたことわざを論じた。論点は多岐にわたり、登場人物の人名に隠された秘密(たとえば、ラスコーリニコフは“叩き割る”と関連する)を解き、ことわざ部分の翻訳が訳者によってどれだけ違うか、比較する。また、狼や羊の比喩のイメージがどこまで普遍的か問いかけ、旧約聖書から漱石・遠藤周作まで自在に逍遥する。合間には、黒澤明『白痴』のエピソードも交え、最後に、言葉は「永遠に運動し、永遠に変化し続ける対話的コミュニケーションの媒体」とするメタ言語学で結ばれた。そんななか、ロシア文学では、一筋縄ではいかない人物にことわざを使わせるのでは、という仮説が印象に残る講演であった。

六段の調べ──箏柱(ことじ)に膠しなかった八橋検校──

古典芸能は、箏演奏家の横山裕子さんをお招きし、江戸初期に八橋検校が作曲したとされる「六段の調べ」を演奏していただき、そのプロトタイプ「すががき」の復元演奏のレコードと聴き比べた。かつては、一曲の演奏中に箏柱を動かすことはなかったが、八橋検校は柱を動かしたり、押し手を導入して調子を変え、邦楽の世界を大きくひろげたと解説。後半は、金子みすゞの詩に横山さんが自ら作曲した歌も披露。洋装で、魅惑的かつダイナミックに演奏する横山さんの箏を間近に聴いて、時空を超えるひとときを過ごすことができた。

刺激的で有意義なシンポジウム

今回のテーマは「言語学とことわざ」で、まず4人のパネリストがそれぞれの視点から報告をおこなった。    最初に、八木橋宏勇氏(杏林大学講師、認知言語学)が、「ことわざの暗示引用」について報告された。「暗示引用」とは、引喩の一形態で、「明示引用」と対置される。ことわざは、各部分の意味を総計しても全体の意味にならないが、その一部を表現するだけで全体を想起させる〈慣習性〉があり、それゆえに認知プロセスによって創造的に利用されることがある、という。後者の具体例として、「猿も木から落ちる」(プロトタイプ)を挙げ、「XもYから落ちる」とスキーマ化し、「内村もあん馬から落ちる」と事例化することができるとした。認知言語学からアプローチが、庄司和晃氏のノボリ・オリの図式を連想させるものとなり、興味深かった。

続いて飯田秀敏会員(元名古屋大学教授、韓国語学)が「言語学におけることわざ研究」について報告された。言語学のなかで、ことわざ研究が周辺的なものとなり、影がうすくなった背景として、比較言語学から構造主義的言語学、生成文法理論に至る言語学の流れを挙げた。現代では、ことわざは言語資料としての価値がきわめて低く、辞書的処理で十分とされているが、ことわざ学が言語学の下位分野の一つであることに変わりはないことが強調された。そして、ことわざに魅力がないのではなく、ことわざ学をアピールする努力が必要であるとして、概説書やデータベース構築などについて、7項目の具体的提言がなされた。新たな研究者を生み出していこうとする積極的な内容で、示唆的であった。

次に、武田勝昭会員(酪農学園大学非常勤講師、英語学)が「ことわざとその言語機能」と題し、庄司和晃によることわざの分類──知識ことわざ、思考ことわざ、遊びことわざ──と、ローマン・ヤーコブソンによる言語機能の分類──情動的機能、他動的機能、指示的機能、詩的機能、交話的機能、メタ言語的機能──をつき合わせて、ことわざの特徴の解明を試みた。分類ごとに文学作品の一節を引いて説明され、なかでも「ものは相談やけどな」(田辺聖子)といった場合、意味伝達の機能は希薄で、会話をスムーズに進めようとする意図(交話的機能)のみが感じられるとしたのが示唆的で、印象に残った。

最後に、佐竹秀雄会員(武庫川女子大学教授、日本語学)が、「ことわざ研究と日本語学」と題して報告された。日本語学ではことわざが研究テーマとなることは少なく、その理由として、体系化の難しさ、言語単位としての不均質さ、意味や用法の安定、という三点が挙げられた。そのうえで、ことわざ研究の方向性の具体例をまず語彙研究の立場から、次に対照研究の立場から、そして社会言語学的な立場から、それぞれ提示された。また、その試行として、「ことわざが実際に使用されているのはどういういうときなのか」という問題意識から、桂米朝の落語130作品を分析された。

フロアとの論議は省略するが、今回のシンポジウムは、報告者の問題意識と切り口がそれぞれ斬新で、刺激的であり、また相互によく噛みあっていた。「ことわざと言語学」という大きなテーマに恥じない、有意義で充実したシンポであったと思う。(永野恒雄/鈴木雅子)