第28回ことわざフォーラム

 通算28回目となる”ことわざフォーラム2016”は、2016年11月12日(土)、武庫川女子大学言語文化研究所との共催で、西宮市の武庫川女子大中央キャンパス研究所棟において開催された。(以下は、当日の司会者などによる報告である。)

研究発表の報告

 李恵敏会員は「中国の学校における諺と成語の取り扱い」と題して中国朝鮮族が多く居住する東北三省(吉林省、黒竜江省、遼寧省)における朝鮮語・学習教育の実情に関する解説に引き続き、朝鮮族小学校で使われている小学校低学年の朝鮮語教科書「朝鮮語文」と中国語教科書「漢文」の中でどのようなことわざや四字成語がどの程度扱われているかを調査した結果が報告された。どちらの言語に関しても小学校低学年からかなりの数のことわざと成語が取り上げられており、言語教育素材として重要視されている。また、学校によっては、補助教材を用いてさらに多くのことわざや成語が教えられている事例もあることが報告された。

 高村美也子会員は「口頭文芸ことわざからの学び 無文字社会ボンデイにおいて」と題して東アフリカのタンザニアの少数民族言語の1つであるボンデイ語では、ことわざから物語を作り、その物語を広めることによって伝統的な価値観やさまざまな知識を教えようという試みがなされていることが報告された。ボンデイ語は文字を持たないため、ことわざなど口頭伝承によって社会の規範が守られてきたという伝統がある。長老が集めたボンデイ語のことわざと、それに基づいて作られた物語のいくつかを取り上げ、設問付きの物語によってどのようなことを教えようとしているかの分析が示された。

 武田勝昭会員は「『カンタベリー物語』の庶民とことわざ」と題してチョーサーの『カンタベリー物語』に登場することわざの分析を通じて、ことわざを巡る様々な事柄が示された。発表は、豊富な資料に基づいて、物語の解説、歴史、宗教、地理、社会構造、修辞学、英語史など広範な話題に及び、発表時間を延長しても飽きることのない刺激的な内容であった。内容を敢えて絞るとすれば、『カンタベリー物語』当時の言語状況は英語がフランス語の影響を強く受けるようになった時代であり、庶民の言語である英語と上流階級の言語であるフランス語とのせめぎ合い、その背景にある世俗の対立から、英語のことわざにLouisの「庶民ことわざ」と「教養ことわざ」の区別がチョーサーの作品の中に明確に表れていることが指摘されたことである。(鄭芝淑)

講演「ことわざの現在」

 北村孝一会員は冒頭、政治家、現代の若者、沖縄問題の米専門家などの〈ことわざの風景〉引き、その特徴を4つにまとめた。(1)ことわざを単なる決まり文句として使う、(2)ことわざを知らない若者もいれば関心を示す若者もいる、(3)異文化のことわざがいまも日本語に入っている、(4)ことわざをテキスト(ことわざの本文)と意味のセットとしてのみとらえる。それは、ことわざの本質に根ざすもので、(1)~(3)は今に始まったことではない。ただし、クイズ番組や試験問題に顕著に表れる(4)は、異質かつ最も現代的である。ことわざを単なる知識として扱えば、コミュニケーションの機微はほぼ欠落する。その裏には、ことわざを生きた形で伝承する場が失われた現実がある。しかし「滿つれば欠くる」で、悲観せず、それぞれの場で生き生きしたコミュニケーションを求めていくことが必要であると締めくくった。(武田勝昭)

シンポジウム「庶民の暮らしとことわざ」

 シンポジウムでは、まず3名のパネリストから各々のテーマに基づく報告が行われた。森田登代子氏(桃山学院大学非常勤講師)「庶民の暮らしとことわざ」、佐竹秀雄会員「言語面から見る東西いろはかるた」、永野恒雄会員「内海桂子のことわざ観と創作ことわざ」である。

 森田氏からは、かるたが江戸時代後期に子供の進物用として用いられていたこと、また近世後期には女子供向けの遊戯具として一般的であったことを、商家の贈答品目録や『進物便覧』などの資料から紹介された。また木版印刷の発達により、かるたが遊びにとどまらず、教育に移行されていったことが報告された。

 佐竹会員からは、東西、江戸と京のいろはかるたで用いられる言語を分析した結果が発表された。単語を品詞別に見ると名詞の比率が高く、これは要約的で非説明的な表現が多いことを意味している。内容の性質から見ると、現実の場面・状況を描写するものが多く、さらに表現されている事柄のイメージから見ると、マイナスイメージのものが多いという結果であった。楽ではない庶民の暮らしの中で、要約的なことわざは解釈の自由度が大きく、そこから都合のよい解釈と納得をもたらす役割を果たしていたのではないかという指摘がなされた。

 永野会員は、内海桂子師匠によるエッセイ集のタイトルに用いられたことわざ65個を分析された。中には自作と思われるもの、創作のものもあるが、それぞれエッセイのエピソードに基づくことわざであり、ことわざの解釈が明白となる。ことわざは本来、庶民によって使われ、学習するものではなく耳から入ってくるものであったことをも浮き彫りにする結果が報告された。

 報告の後、フロアを交えた多岐にわたる質疑応答が行われた。庶民とは何か、という議論のほか、ことわざの言葉自体が教訓めいたものなのではなく、使う人や場面によってその要素が加えられるのではないかという指摘もなされた。(飯田秀敏、鈴木雅子)