第18回ことわざフォーラム

第18回ことわざフォーラムは、2006年11月18日、明治大学和泉キャンパス(東京都杉並区)で、ことわざ研究会と明治大学ことわざ学研究所の共催で開催された。和泉では初の開催で、参加者は穏やかな秋の日射しのなかで、充実した時間を過ごすことができた。

個別研究発表(テーマ自由)

午前の部では、武田勝昭会員(和歌山大学教授)の司会で四つの研究発表(自由テーマ)が行われた。

最初に倪福明さん(和歌山大学院生)が「英語ことわざの語用論」と題して、ことわざの用法を、発話行為理論を用いて断言型、指令型、確約型、表出型、宣言型に分類し、用例を示して発表した。分析対象とした約三百のことわざのうち約八割が断言型として用いられているという。

次に、蓮見順子会員(翻訳家)は、心理学者マズローの唱えた欲求の五段階理論に基づき「ネパールの人々の物質的欲求と精神的欲求―ことわざからの考察」と題して発表した。ネパールには食・富・財産・お金などへの強い物質的欲求を表すことわざが多くあるが、他方で「食べるために生きるのではない、生きるために食え」などの誇り高い精神的欲求を表すことわざも見られる。その背景には、ネパールの貧しさとヒンドゥー教の教えが強く支配していると思われるという。

続いて、森洋子会員(明治大学教授)は、本発表が時田昌瑞会員の協力によって実現したとの同会員への謝辞を述べた後、「ブリューゲルと古い日本の諺」と題して発表した。ピーテル・ブリューゲルの《ネーデルラントの諺》および同時代に同じ諺を表現したフランス・ホーヘンベルフなどの作例と、内容的に類似する鍬形蕙斎『諺画苑』、河鍋狂斎『狂斎百図』などの図像を数多く投影しながら解説を加えた。日本のことわざ図像には、西洋のストレートな風刺や教訓とは異なる、庶民好みのユーモアとエンターテイメントがその特徴として見られるという。

最後に、山口政信会員(明治大学教授)が「わざの伝承・創発と創作ことわざ」と題して発表し、体育やスポーツ教育において、わざの創発をうながす勘やコツを伝承するためには、学習者の運動感覚を言葉にする機会を保障することが欠かせないと主張した。それは取りも直さずことわざに練り上げ、昇華させる“わざ言語”であり、部分的な“理解”の積み上げを主軸とする近代の教育法とは異なる、指導者の言葉=身体が対象者の身体で丸ごと理解される現象学的運動認識に他ならないという。

 

《古典芸能コーナー》

午後の部は、好評の古典芸能コーナーから始まり、長唄三味線ライブ「伝の会」などで活躍中の松永鉄九郎さんをゲストにお迎えした。女性のお弟子さんの鉄駒さん・鉄六さんがツレ、鉄九郎さんのタテ三味線で、まずはおめでたい長唄から合方(唄なしの三味線演奏部分)を3曲。次に『勧進帳』から「瀧流し」、季節感を表わすものとして「虫の合方」と「佃の合方」の演奏。曲の合間には三味線の種類や構造、三味線音楽の歴史、語り物と唄いものの違いなどについて分かりやすく説明していただいた。

続いて、ことわざ研究会で演奏するのだからと、鉄九郎さんが選んでくれたのが歌詞にことわざが出てくる『吉原雀』(ことわざは「女郎の誠と玉子の四角」など)で、鉄九郎さんには特別に唄を披露していただいた。最後は『二人椀久』。ひとりがアドリブ的に華やかにメロディーを奏でるパート(タマ)と鉄九郎さんによる弾き唄いを堪能することができた。演奏後、フロアからの質問にも親切にお答えいただき、三味線の音色と鉄九郎さんの美声が心に残る会であった。

 

講演「八文字屋本とことわざ」

花田富二夫氏(大妻女子大学教授)は日本近世文学の専攻で仮名草子を初め庶民文学に造詣が深く、とりわけ八文字屋本の活字本出版には長年尽力されて、膨大な文献群が読書界に開放されている。現在はそれの索引の編纂に携わっておられるが、必ずしも多くはない江戸中期の語彙資料に新たな材料を提供することになろう。索引は項目別になるとのことであるが、「故事成語」の項ももうけられた。近世小説の創作類型として、冒頭に世話(諺)を掲げ、次に文章がくるというのがある。読者のつかみとして諺が役に立つのだろうが、作者も故事集・諺集などの種本を持っていたことが予想される。今日そうしたものはまだ発見されていないが、『毛吹草』所収のものの様なのが用いられていてのであろう。西鶴本の方が今日有名でもあり研究も多く、かつ文学的にも高度であろうが、作品数の方は八文字屋本の方がはるかに多く、また相当に読まれたようでもある。江戸小説における諺は研究の重要な鍵の一つともなり、本格的な調査・研究がいまなお望まれる分野である。

実例として自笑・其磧『往昔喩今世話善悪身持扇』の解題がなされ、実習として上巻第三「薯蕷が鰻になる」が講読された。出家得度の身ながら女郎通いをなし、身受けをした挙げ句、大黒殿のためにやがては還俗して鰻を売る。彼の昔を知る人が「精進物の山のいもが、うなぎ売になった」と評する。標題の諺は、変わる様が徹底していることをいうのであるが、物語ではそれを文字通りの意味にして、精進の出家が生臭になったと揶揄する調子を含んでいる。この様に庶民小説は諺を下敷きにしながらも、本来の意味・用法を多少変形しながら使用しているという点で、注意を要するとともに、文学用法での諺の在り方が観察される誠に興味深いものであった。

 

《シンポジウム》異文化接触の場としてのことわざ

パネリストのトップバッター、仲村優子会員(沖縄県立陽明高校教諭)「沖縄のことわざにみるコミュニケーションの伝統―沖縄本島那覇を中心に―」は、ウチナンチュ(沖縄人)が他者を受け入れ大切にする心を取り上げ、沖縄のことわざを用いたコミュニケーションスタイルに、相手に問いかけたり考えさせたりする「たずね」形式のものが特徴的に現われることを指摘された。また、大和のことわざを沖縄のことばに翻訳する際に「たずね」形式にアレンジにされる例も紹介し、「イチャリバチョーデー」(出会えば兄弟)に端的に表わされる、沖縄特有の相手に寄り添うコミュニケーションの伝統をわかりやすく説明された。

ついで松村恒会員(大妻女子大学教授)「クレオールのことわざ」は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のクレオール研究についてふれながら、「クレオール」ことわざの定義を社会言語学の成果などをもとに整理し、具体的にフランス語ベースのクレオール語ことわざをルイジアナ、トリニダード、ハイチ、セントルシアの地域から取り上げて、根生いのことわざもヨーロッパから導入されたことわざについても、内容的には異文化接触という命題から予想される大きな変容は見られないのではないかという見通しを示された。これはことわざのみならず、その土地ならではの独自の伝承や外部からの文化の伝播を考える際にも、注目すべき見解であった。

北村孝一会員(学習院大学非常勤講師)「西洋から日本語に入ってきたことわざ」は明治初期以来西洋文明を短期間に取り入れた日本で、ことわざに西洋起源のものが多いことを指摘された上で、明治期の小学校の修身書に引用されたことわざ資料をもとに、ことわざの受け入れには訳者と引用する側の改変があり、その定着においては民俗的な意味での納得と抽象的なものについては時代精神に合致することが必要なのではないかと述べられた。

沖縄、クレオール、明治以降の日本という三つの場をめぐって、どのように文化が伝播してその地独自の文化と関わるのか、権力的な力関係における上から下への文化の一方的流入の問題、時代精神や風土がことわざにどのようにかかわりを持つのかなど、今後の新しいことわざ研究の端緒となるシンポジウムとなった。進行は伊藤高雄会員、司会は保阪良子会員が務めた。