“音声と響き”をメインにフォーラムを開催
“ことわざフォーラム2023”は、「ことわざの音声と響き」をメインテーマに、11月25日(土)午前10時より杏林大学井の頭キャンパスで開催された。コロナが収束に向かうなか、マスクを着用しながらも、意欲あふれるフォーラムとなった。
研究発表
午前の部では、5名の会員による研究発表(自由テーマ)が行なわれた。
まず北沢篤史会員(サイト主宰者)による「WEB上でのことわざ探求:人々が何を知りたいのか」と題する報告。これは自らが運営するサイト(「ことわざ・慣用句の百科事典」)のアクセスデータを基づき、現代人のことわざに対する関心の所在を多角的に分析した貴重なリポートだった。今後広く論議されることを願って疑問文のカタチにしておきたい。現代人は、①なぜ漢語由来のことわざに関心が集まるのか。②なぜことわざを使って季節を感じようとするのか。③なぜ「有名なことわざ100選」などのアンソロジーが好まれるのか。
2番目は、長谷川スベトラ・イワノワ会員(星城大学講師)による「日本語とブルガリア語において『手』を扱った慣用句の比較」。例えば、日本語の「手軽」は簡単でたやすいことを意味するが、ブルガリア語の「leka raka(手が軽い)」はよく働くことを意味するという。このように、ほぼ同じ表現で意味が異なるものもあれば、同様の意味のものもあり、まったく別の表現が同じ意味を表すものもある。慣用句は日常の会話に欠かせないので、他言語の慣用句にふれることで、その言語を学習する意欲が高まるとされた。
3番目は、大島中正会員(同志社女子大学教授)による「ことわざはどんな文の成分になりうるか?――日本語学習者のためのことわざ用例辞典作成のために――」と題する報告。文中でのことわざの機能として、次のものを例示した。「彼岸になってしのぎやすくなった。暑さ寒さも彼岸までとはよくいったものだ」(題目提示)、「そんな失敗ぐらいでくよくよするな。明日は明日の風が吹くさ」(述語)、「鶏口となるも牛後となるなかれをモットーに起業した」(補語)など。ことわざも単語と同様に、文の成分にもなりうることを示す報告であった。
4番目は鄭芝淑会員(鹿児島大学准教授)による「朴斗星(パク・トゥソン)のことわざ」。朝鮮総督府による朝鮮の俚謡や俚諺等の調査(1912)の際、朴は自ら収集していた京畿道の俚諺を提供した教員。報告者は、この資料と高橋亨『韓国の物語集附俚諺』(1910)をていねいに比較し、朴の465項のうち223項が高橋と共通するとした。内容は、高橋が日本語訳のみ挙げるのに対し、朴は独自に朝鮮語原文を示しており、総督府による俚諺調査のなかで質量ともに第一級の優れた資料であると結論づけた。
最後は玉村禎郎会員(京都産業大学教授)による「仏教関連のことわざ─その類型」。昨年の「ことわざのなかの仏教由来語」に続き、今年は仏教関連のことわざを次の三つの類型により分類する試みであった。①「朝題目に夕念仏」のようは仏教用語が使われるもの、②「縁は異なもの味なもの」のように仏教思想が表現されたもの、③「栴檀は二葉より芳し」のように、①②に該当しないが仏教との関連が認められるもの。残念ながら質疑の時間がとれなかったが、この分類の発想はシンプルで、他のジャンルでも応用の可能性があると感じた。(尾﨑光弘)
ワークショップ「朗読で聞く“ことわざの世界”」
午後の部は、メインテーマにちなみ、フォーラム初の朗読によるワークショップから開始された。まず式亭三馬『浮世風呂』の女湯の場面で、星野弥生会員が下町の江戸弁で二役を演じた。次いで『福翁自伝』から、若き日の福沢諭吉(北澤篤史会員)が長崎から中津に帰らず上京する決意を商人(永野恒雄会員)に語り、無理だと反対されると、「口があれば京に上る」とことわざを引いて反論する場面。最後は『回想のドストエフスキー』から、若き速記者アンナ(保阪良子会員)と作家(北澤会員)の出会いから交際に発展する対話。バラエティに富んだ三作品の朗読は、いずれも真情あふれる熱演で、ことわざの世界への新鮮なアプローチとして印象深いものがあった。
室井和男氏の講演「シュメール語のことわざ」
室井氏はバビロニア数学史の研究者で、楔形文字で書かれた粘土板文書を研究するうちに、紀元前18~17世紀のシュメール語のことわざに心ひかれ、『永久に生きるとは――シュメール語のことわざを通して見る人間社会』を著したという。講演は、楔形文字や言語の概説、当時の数学のレベルなど専門的内容も交えながら、約4千年前のことわざを例示し、解説された。その表現にすでに押韻や対句、反復がみられ、一部には反権威的批評も認められるのは驚嘆に値しよう。室井氏は、シュメール人の数学的資質を高く評価したうえで、人類は4千年の間に科学技術を大きく発展させたが、本質的にはあまり進歩していないのではないかという。そして、ことわざを通して古代人の喜怒哀楽を少し理解できたのではないかと思う、と語られた。(鈴木雅子)
シンポジウム「ことわざの音声と響き」
プログラムの最後は、「ことわざの音声と響き」をめぐるシンポジウムで、パネリスト4名が登場した。
最初は武田勝昭会員(和歌山大学名誉教授)の「ことわざの発音とその特徴」で、オンラインによる札幌から報告。まず、東西のいろはかるたの韻律を分析し、ことわざがジャンルとして定型を持たないことを顕著な特徴とした。次に、和歌とことわざの発音を比較し、和歌は抑揚をつけて「詠む」のに対し、ことわざは抑揚をつけずに「読む」のだという。また、和歌や川柳に由来することわざにふれ、形式が変わってもその意味は保持されると指摘した。歌舞伎「天衣紛上野初花」の動画も交え、内容豊富で刺激的な報告だったが、時間の制約で詳しい説明を聞けない部分があったのは残念だった。
2番目は、鈴木雅子会員(昭和女子大学専任講師)の「ことわざとプロソディ」と題する報告。ことわざを韻律(プロソディ)の視点から問い直すもので、ハイライトはことわざの音声と、同じシラブル数の通常の文の音声の比較だった。デンマーク語とスウェーデン語では、比喩表現やことわざにおいて通常の発話と異なる(発音が早くなるなど)プロソディが確認でき、ことわざを一つのものとして捉えているといえよう。最新の音声解析ソフトによりグラフ化し、音声も再生して、門外漢にもわかりやすい説明がなされた。また、ことわざの特徴にリズムの良さや押韻があるが、これは、ことわざ全体を一つのものとして発話するために発生しているのではないか、という示唆的な指摘がなされた。
3番目は、ゲストの槍振一郎氏(シェイクスピア愛好家)の「シェイクスピアのことわざについて」。シェイクスピアは、ことわざ氾濫の時代の作家で、作品の3千箇所以上でことわざを引いているという。報告では、シェイクスピアが、手を変え品を変え、ことわざを用いる具体例が豊富に挙げられた。シェイクピアの作品が演劇の脚本であることを考えると、ここでも、ことわざと音声の関係にあらためて注目させられた。時間が押したため説明を急がれたが、また機会があれば、ゆっくり味わいたい報告であった。
最後の報告は、北村孝一会員(ことわざ研究者)の「文字の世界を越え、ことわざに耳を傾ける」。ことわざは音声の文化であり、文字の文化ではない。そのことは、ことわざが高度に発達した無文字社会があることで明らかであると、報告者は「音声としてのことわざ」を再確認したうえで、さらに「響きとしてのことわざ」という問題を提起した。ことわざが相手に響くとはどういうことか、相手がことわざを受けとめるとはどういうことなのか。いくつか。具体的なことわざを例に引きながらの新鮮にして興味深い問題提起であった。 (永野恒雄)