『ことわざを知る辞典』(北村孝一編)

(小学館、2018年)

『ことわざを知る辞典』を読み解く

武田勝昭

昨秋(2018年)、北村孝一編『ことわざを知る辞典』(小学館)が刊行された。一見したところ、北村氏の監修で同じ版元の『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(2012年)をコンパクトでわかりやすいものにした縮約版のようにもみえるが、よく読んでいくと、ことわざを多面的に論じた10編のコラムがあり、約1500項のうち主要項目100には1頁のスペースを割き、詳細な解説を施し、用例も新たなものが少なからず見受けられる。おそらく、そこには、「その後の研究成果もふまえて新たに編んだ」(「本書の構成」)という以上のものがあるのではと思い、著者の他の著述も含めて、あらためて考えてみた。

「若者」と「ことわざ」

『知る辞典』の構想は、著者のエッセイや講演で直接、間接に言及している2つのキーワード「若者」と「用例」から推測することができる。
その1つに、『青淵』9月号(渋沢栄一記念財団)掲載の「火のないところに煙は立たない」がある。そこでは、次のような述懐から始まる。「この数年、若者にも使いやすいコンパクトなことわざ辞典を作るために、近現代の文学作品を読み返し、ことわざの生きた用例を探索する日々が続いた。」
これを苦労話として読み流してはいけない。若者をことわざの担い手として正面から取り上げた宣言と、私の眼には映る。これまで、ことわざ辞典が対象とする読者は主に一般読者と子どもであった。少なくとも、若者を強く意識して作られた日本語のことわざ辞典は、ないに等しかった。ことわざと若者は相容れないとする通念に縛られていたからである。

「ことわざの現在」

著者は“ことわざフォーラム2016”で「ことわざの現在」と題して講演をおこなっている。そこで語られたのは「ことわざをテキスト(辞書形)と意味のセットとしてのみとらえる」ことわざの風景である。単に知識として扱われることわざは、「場面やユーモア、批判や笑いといったコミュニケーションの機微はほとんど欠落して」しまう。その傾向が顕著になった背景には、核家族化とTV・パソコン・スマホなどメディアの劇的な変容があり、ことわざを生きた形で伝承する場が失われてしまった、という。
当時、著者は学習院大学でことわざの授業を担当しており、「若者のことわざに対する関心の高まりを実感しています」と、若者に寄せる思いを語っている。やがてそれは、『青淵』での宣言および『知る辞典』の序文の「特に力を注いだのは用例で…なるべく場面や文脈がわかる形で引用」することにつながったものであろう。

用例が語るもの

用例は、一読して意味はもちろん、文脈、場面、意図、ニュアンスなどを理解できる典型的なものでなければならない。『知る辞典』には900を越える用例が示されている(主要項目は原則2例)。
ことわざには、時代と共に解釈や用法が変化したり、別の解釈が生まれたりするものが少なくない。たとえば「蛙の子は蛙」は、ありふれた句であるが、否定的にも肯定的にも使われる。本書は、双方の用例が掲載され、さらに解説では次のように述べている。「かつては〈略〉平凡もしくは取るに足りない者という意味合いが付随し、他人の子どもに対しては遠慮して口にしない傾向がありました。〈略〉従来のニュアンスにとらわれず使われるようになり、時にはむしろ賞賛する文脈で使われる場合も出てきています。」
「後の祭」にも2つの解釈がある。1つは時機に遅れた比喩として、他は死後の供養とするもので、『大辞典』はいずれも立証不十分としていた。しかし、『知る辞典』は明治期のことわざ集に織田信長の逸話があること、「悔やんでも後の祭」の用例が今もあることを挙げ、底流に残された者の悔恨があると指摘する。この結論に至る鍵は『大辞典』の用例にあるのだが、編者の周到な辞書作りを知る好例として詳細は伏せておこう。

辞典名に込められた2つの意味

コラムで語られたことわざ学のエッセンスはもちろんのこと、先に触れた通り、本書の随所に、著者が積み重ねてきた成果が記されている。その背後には丹念に掘り起こしてきた文献の裏付けがある。それらを考え合わせると、『ことわざを知る辞典』が「個別のことわざを知る辞典」であると同時に「ことわざとは何かを知る辞典」でもあると言えよう。
最後に、本書は、ことわざ研究を志す者にとって、テーマの宝庫でもあることを付言しておきたい。

※初出「たとえ艸」第90号(2019年10月26日)